なづき本公演について インタビュー/川津望


---なづきの始まりについて。

川津:なづきの始まりは、月読彦さんが新しい作品を作る、と発言したところから。彼は創作にブランクがあったんですね。なかなか自分の納得のいく……想像力へアクセスしにくかったところへ、私が「こういうのをやってみたら? 」という風に習作公演の原案をぽつぽつ話していったんですね。そしたら月読彦さんが「そしたら川津さん、何か作ったら? 一緒に何か作っていかないか」と言われました。習作公演のなづきⅠ、Ⅱ、Ⅲと言うのはそうやって短い時間で集中力をたかめて編みました。

---「なづき」という名前について。

川津:最初の公演で病理をはらむ頭をコンセプトに置こうって発想したのとほぼ同じ時期に「なづき」っていうのがひらめいて、あ、これにしよう。って思い、名づけました。
やっぱり脳、名指すことを含んだ親しみやすく、なくてはならないけれど実は知っていそうで知らないってものについてあらわしたかったので、ひらがな表記にしました。

---なづきの本公演 テーマは一つなのか、いくつもテーマが組み合わさっているのか。

それは「ポリフォニー」ですね。

---ポリフォニーですか。

川津:そうです。例えば、お互い遠いところにいる、出会ったことのないたくさんの人々がいて、そのひとりひとりが口ずさむメロディがあるとします。そのメロディを口ずさむ人々それぞれに担っているもの、背景がある。そうしたものが一つの脳の中を駆け巡っているイメージです。一人が口ずさんでいる歌を聴いているだけでは一つの歌でしかないけれど、それが頭の中にたくさん流れることで全く違う音楽に聞こえてきてしまう。また、そのポリフォニーの内ひとつの歌に意識を向けるとまた別の聴こえ方がする。
今回なづきの本公演を考えるときに、詩の文脈で何か形づくれないかと思って、月読彦さんといろいろ話していたんですね。
音楽と詩というものはその歴史的にも重なっていて、同じ泉のところから来たものだと思うので、私のバックボーンに音楽があることもあり、切り離せないものです。
自分の詩のスタイルですが、全く接点のないようなもの・規模が違うもの——例えば宇宙・楽譜・隣のあの子・果物なんかを一体として浮かび上がってくる像、というものがあります。そこを一番出したかった。
例えば向こうから女の人、おばあさんとかが歩いてきて「こんにちは」と言われた、でもそれに対して「こんにちは」とは返さなかったけれど、こちらは夕陽を見て、夕日に対して「きれいだね」と言っているかもしれない。そこには女の人、もしくはおばあさんが夕陽を見ているか見ていないかはわからないけれど、確かに存在している。同じ空間にいながら、同じものを見ている、もしくは見ていない。しかし確かにあるものの影響、隠されているものの影響を受け、それらへ自身をかえしている。そういう世界の構造を作りたかった。そして混然一体としてあるその中で、出会う人々はその内にすごくいろんな多様性を含んでいるんです。

---なるほど「イメージが混在している」ことそのものが脳の内で起きていた。
脳という一つのテーマと共にもう一つ・・・
三千世界という言葉、劇中で何度も登場する良寛さんの歌から宇宙・宇宙観というものを強く感じました。なづきにとっての宇宙観とは他にどのように表されているのでしょうか。


川津:本公演に「みちあふち」というキャラクターが登場しましたね。
「みちあふち」というのは「コロス」と「三千世界横丁」の劇中人物「目次」などと話ができる境界線上にある人なんです。
コロスはコロスの世界があって、三千世界横丁の世界で目次は、同じく劇中の「ポウ・ポー」と同一人物という揺らぎの中にいるという二重構造のなかにいるわけなんですよね。
やはり多様性を含んでいる。
やましんさん(山崎慎一郎)は、「マリアンヌ」であったりコロスの一員として話したり。
一人の人物なんだけど、さっきのポリフォニーの話で言うと、一人の人物の中に歌が何個も入っていて、ここの歌のパートを聞いてみようかなと思うとそれが聞こえてくる。またパッと耳を元に戻すと別の音楽に聞こえてくる。一人の人の中に鳴り響いている音楽の中にいっぱい歌が入っている。そういう宇宙観というのは意識しましたね。

---以前なづきの公演のあとにお話しいただいた、入れ子構造になっているということもその宇宙観に基づいているのですね。「あは雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあは雪ぞ降る」というような。

川津:また、堀内薫(今井歴矢)という役が、目次に傘を託すのですが、ひろげて渡しましたよね。その傘の熱で雪に象徴される時間が溶けるわけです
そして、滴りますよね。それが目次の言葉や感情というものとシンクロしています。
「淡雪……」から始まる、目次くんの最後のセリフなんですが。
私が良寛さんの歌を受けて作った返歌になっています。

『淡雪、溶けた雨粒ひとつぶひとつぶは時計なんです。それがてんですきに時をすすめるものだから、よるもひるも色んな方向にねじれてゆきます……どんな世界や名前だって引きちぎられそうになりながら、持ちこたえている、丁度ぼくみたいにそんなフリを必死でしている。だから舌打ちしているんです。ぼくも時計だから舌を歯の前やうしろでチッチと鳴らしてみるんだけれど、やっぱりおじいちゃんの時刻は鳴らせない。おじいちゃんも淡雪でした。ぼくはだいじなだいじな一滴をうしないました。』

途方もないことですが、小さなものの中に大きなものがある。大きなものの中にものすごく微細なものの震えがあったり。またその一つ一つの微細なものの中に大きなものがあったりと、無限に続いていく。そしてそれぞれに時間があってバラバラに時を刻んで、変動していくわけです。
その時間全部、自分の心身に入れたら人間は多分生きられないと思います。全部知覚しちゃったら。そして息は出来なくなると思うんです。本公演のラストシーンというのは 米倉香織さん作曲の「breath」息というタイトルの曲で締めくくられます。
そこからの世界は、言葉というものに集約されない音楽の世界に、ある意味バトンタッチして、みなさんに何かを受け取っていただきたく、そういう形にしました。

---大きなものの中にものすごく微細なものの震えがあったりとか―音楽と詩の関係について先ほどお話しいただきましたが、なづきを構成する要素でもある「身体表現」「演劇」と「詩」との関係についてはいかがでしょうか

川津:私が詩を書いている時に大事にしているのが、身体感覚です。
詩を書くまえに、あるオブジェのための部品をつくったりすることがあります。数時間ワイヤーを一人でねじることを繰り返したりするのですね。えも言われぬ不思議な感覚に陥ります。くりかえされる動きや呼吸のなかに、何かが棲んでいるようです。
「なづき」の公演のために書きおろした詩で「表情筋に祖父が満ちてくる、精霊が満ちてくる目がいつもより大きく開く」というくだりがあるんですけどそういうようなものの「名指せない部分」との出会い方を丁寧に意識しながらやっていくと舞踏家の体感しているものと、重なるところがある気がするんです。例えば、舞踏家の榎木ふくさんの踊りをみると、大腸と胃に触れてくるんです。観るもののお腹においしい液体が溜まってくるような。個人的な感覚ですけどそういう内臓感覚の話をふくさんに伝えたら、喜んでくださいました。余談ですが、ふくさんは、土方巽に師事した舞踏家小林嵯峨さんは踊っている時に爬虫類の顔になる時があると言っていました。その嵯峨さんと詩人の森川雅美さん、役者の谷川俊之さん、音楽家の山崎慎一郎さんと一緒に、私が声で参加した公演「舞踏考 鎮魂」が2018年3月11日に.kiten であったんですね。そのときに、小林嵯峨さんの舞踏を地続きで体感して、神経が身体の外へ繁茂してゆくような皮膚感覚を得ました。次の日は起き上がれませんでした。
また平野晶広さんという舞踏家がいらっしゃるんですけど、その方は頭、まさしく「脳」に触ってくるような踊りを踊られる。
はなしが逸れますが、表現には定型がありますよね、つまり型。踊りも音楽にも、詩にも定型があります。定型にそれぞれ立ちかえりながら更にどこにも分類できない、名指すことができない部分に出会いながら、自分の表現したいものを追求していく、それに尽きると思うんです。詩の書き手が名指し得ないものを重くうけとめるように、ダンサーも、舞踏家も、音楽家も、いま一度自分の感覚でとらえたものにこだわって、言葉にしてみてほしい。
そういう面でプロジェクトなづきでの活動を通して、参加メンバーには内臓に触れるように言葉にもっと触れてもらいたいと思うし、彼らから多くの語彙を攫いたいとおもっています。そういう面でダンスや舞踏、演劇、音楽との関わりはプロジェクトなづきの、私の言葉との関係を踏まえても、ものすごく重要だと言えます。

---なるほど、なづきというものをご自身で作られていく中で言葉と身体表現の間で出会うものがある、ということですね。それを踏まえて演技と言葉の関係についてはいかがでしょうか

川津:役者の朗読する言葉、発声と詩を書いている人の言葉・発声って全く違うわけですよね。鍛えている環境が異なる体から出てくるものに私は興味があって。8月のなづきの本公演で主人公の不思議な祖父役を演じたアルチュール佐藤さん(現 ゴーレム佐藤)は、顎のところにハンディがあり、それによって独特の言葉・発声があります。彼自身も言っていますが、不自由があるがゆえに全部の言葉を意識していて、セリフに説得力がある。そしてアルチュールさんの芸のなせるワザ、といいますか、かろみがあるのでおしつけがましくない。
有象・無象、そして供養役を演じられた山田零さんは、大きな声だからこそ面白いところがあったり、怖いところがある。あとあの特異な存在感は一度観るとやみつきになります。ダンサーとはまた違う間の取り方、間の詰め方をします。
斯のごとく役者さんによっても突出しているところがそれぞれ違うと思うし、彼らはそれぞれスタイルを持っていますから、そこを尊重しながらも、一人間としてみた時にどういう風に喋ればいいのか、どういう文法を使えばその人に伝わりやすいのか、そんな言葉を見つけてゆくが大切です。演出的な問題でもありますが、伝えるための方法論はできるだけたくさん持つということを、なづきをまとめていく上では考えています。

---ダンサーや舞踏の身体感覚についてはどうお考えでしょう。例えばダンサーは感覚的で、役者だとよりロジカルな身体感覚を持っているとか。どう違いを感じていますか。

川津:あくまで一例ですが、セリフがあって、この役どころにはこれこれこういう生い立ちがあって、相手との関係がどうでっていうことを俳優は考えると思うんですよね。この場面で立つ。ここでこういう動きをするからこの言葉をこの役どころが言う必然性が出るという思考は、演劇の方がしばしば持つものではないでしょうか。
あと、これはプロジェクトなづきの願いなんですが、自分から自発的に演出について発言してほしいですね。音楽からみたら、演劇からみたら、どのような場が効果的に立ってくるか、考えるだけでなく稽古でどんどん言って欲しいと思っています。ダンスで言うなら コレオグラファーですね。ひとに感覚的に見えたとしたら、たぶん感覚的に踊っている、音を出している、演じているんだと思います。そこがさっき言った話と通じるところで、言葉、私が舞踏家とかダンサー、俳優の身体を観察して、そういうところから語彙を得るのと同じように、ダンサーも舞踏家も感覚を捉えなおす行為の名指し方……言葉から刺激を受けたり得たりするものがもっと、表現に表出していいんじゃないかと私は思うのです。

---俳優たちと互いに影響しあってより良いものを作っていけたらと言う思いをお話しいただいたんですけれども、では、見に来る人たち、についてどういう方たちに見てもらうと面白い影響が起きてくると思いますか。

川津:そうですね、目や耳の厳しい方にも届くものを作りたいなっていうのは絶対あるんですが、例えば好きになる理由がなづきの公演に出ているお洋服が可愛いからというのでもいいんです。もちろん芝居が好きだから見に行くとか、音楽が好き、ダンスが好きでもいい。なづきが扱っているジャンルは広いので、全部を好きになってもらう必要はないと思うんです。嫌いな人がいてもいいと思います、嫌いな人は来ないと思うけど。笑。何も感じないよりかは好きとか嫌いとかの方がうれしいじゃないですか、ありがたいし。誰かある演者を目当てに来るところではない、けれど何か気になるものがあって、
あの続きが気になるので行く、という方に来ていただけたらと思っています。

なづきで使用するお洋服というのはストーリーを暗示させるようなものを使っていきたいですね。一枚の布からできる、切ったり縫ったり可能な服を一着、作りました。ダンサーが着ていた、大きく女の子が描かれたお洋服です。
ダンサーは服を動きやすいように切ったりするんですよ。デザイナーだとそういう行為は絶対嫌がると思うんですね。
だけどプロダクトなづきっていうのはそういうのもオッケーです。着る人に渡ったら、好きにやってもらいたいと思っています。固定のブランドでもないしハイブランドでもないので。プロジェクトなづきでは公演が終わった後に、 プロダクトなづきのオーダーメイド販売会を設けています。メディアミックスも検討中です。

---お洋服について。川津さんがすごくお好きなんだと思うんですけれども、お洋服とご自身の表現というものは繋がる部分はあるのでしょうか服を変えることで何か表現に影響してくる部分についてはいかがでしょうか


川津:例えば気分で今日これ着たい、とか日常的にあると思うんですけれども、服って安易に着られる、似合う服よりも何かまずい出会い方をした服を着る方がずっと素敵だ、と思うんですよね。似合わないとか着られなかったとかそういうことではなくて
衝撃を受けたりとか自分が油断していると服に着られてしまうとかそういうことがあると思います。覚悟していないと着れない服っていうのがあるじゃないですか。それって舞台もきっと同じで、舞台に立っている時に油断する人っていないと思うんです。油断してると当然場に飲まれてしまいますよね。舞台というものもある意味ですごくやばい服だと思うんですよね。空間をどれだけ自分の味方にできるか、自分のモノにできるか。自分に客の目線をどうもっていくか。覚悟をしなくちゃいけない部類の服でも例えば着て歩いたとしますよね。そうするとそれと釣り合うまでの水準に持ってゆかれる人というのはそれがきちん決まっている、着こなしているということになります。明らかに自分が服に着られてしまっていると自分自身の存在が恥部みたいになりますよね。舞台もそうだと思うんです、詩もそうだと思います。
どれだけ空間を纏えているかだと思います。
服は皮膚ですよね、プロジェクトなづきというドレスコード、合言葉は、というアプローチよりか、舞台を着こなす覚悟を持って、観客もメンバーも、プロジェクトなづきと名指し得ない部分のような出会い方をしてほしい。そう思っています。

(インタビュアー:伸枝)