2020年2月20日 公演評「極夜 polar night」

評:北里 義之



2月20日(木)成城学園前のアトリエ第Q藝術にて、プロジェクトなづきの選抜メンバーからなる『極夜』を観劇。

出演は、出演順に、山崎慎一郎、方波見智子、貝ヶ石奈美、月読彦、川津望のみなさん。他に米倉香織さんが作曲・楽曲提供で参加。タイトルの「極夜(きょくや、英語: polar night)」は「日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のことをいい、厳密には太陽の光が当たる限界緯度である66.6度を超える南極圏や北極圏で起こる現象のことをいう。対義語は「白夜」(wikipediaその他)とのこと。

室伏鴻さんの「常闇形」という言葉も思い出されます。「『常闇形』というテキストを書きましたが、私は最初にミイラを踊った時から、身体の縁とか際(きわ)、隅っこにあるものとか、そういうものに対するこだわりがずっとあって、Edgeという言葉はそこからきています。」(2011年10月、インタヴュー「肉体のEdgeに立つ孤高の舞踏家、室伏鴻」)詩人は乳房を鷲掴みにするように言葉に触れ、耳たぶが長く延びるほど言葉を引っぱって小突きまわすといったらいいでしょうか、感情と身体が不可分になるところで言葉の爆発が起こり、「極夜」は「極」と「夜」へ解体し、見慣れぬ生き物となった漢字(character)そのものが生命をもって動きはじめるという、どこかフランケンシュタインの物語を思わせる演劇パフォーマンスでした。
Edgeに立っていられるのは、たぶんそのような身体だけなのだと思います。土方巽が残した言葉のなかでも引用されることの多い「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という名文句、その「死体」という言葉で名指そうとしたものも、おそらくは同じものだったでしょう。

彼らがイメージの身体を使ったのに対し、本作品ではパフォーマーの声が言葉と身体をともにEdgeに立たせる行為の源泉になっていました。その一方、そうした声を発することなくダンスをし演奏した貝ヶ石さんと方波見さんは、公演に身体や手の文法という理知的なものを持ちこんでいたと思います。彼女たちのパフォーマンスは「極」や「夜」という漢字を「極夜」に再接合していくものとして、声と鋭い対照性を描き出すものでしたが、これらを欠くべからざるものとしてともに美しく配合していくところに、プロジェクトなづきの美学があるのかもしれません。